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1697年9月15日、たくさんの塔の古い都市クラコフを見下ろしてそびえる王宮ヴァーヴェル城の玉座の間は賑々しく飾られていました。わずかな例外を除く、ポーランドの高位の貴族が一堂に会し、新しい王の戴冠式が執り行われていました。ポーランド、ザクセンひいてはヨーロッパの歴史に、ザクセン選帝候フリードリヒ・アウグスト一世(1670‐1733)がポーランド王アウグスト二世となる、という一章が新たに加わります。
アウグストの王国は、ポーランドでした。そしてアウグスト選出のため、巨額のお金がザクセンから流れ込みました。ヴィスワ河畔クラコフでは、国民文化の敗北と西洋化という批判が、現在なお行われていますし、ザクセンでもとりわけアウグストの改宗は問題でした。宗教改革の母国が、カトリックの宗主を仰ぐのですから。
今日アウグストは違う点から評価されます。人文科学者たちは彼を「偉大なヨーロッパ人」と見ていますし、美術史家たちは建築と博物美術館の成立への彼の貢献を評価し、歴史家たちは彼の外交政策を、経済学者達は今日まで存続するところのザクセンのインフラストラクチャー建設に注目します。何よりドレスデンの人々やここを訪れる人々に感銘を与えるのは、彼が残した仕事です。アウグストによって、宮殿所在地はバロックの真珠、芸術と音楽の都という、今日の魅力的な都市となったのです。
実際、24歳にしてザクセンの宗主となった時、彼は時代に即した現代的な国家へ国をつくりかえることに着手しました。彼の治下、ザクセン全土は測られ地図が作成され、郵便馬車の里程標が立てられたのです。
1685年に焼失した街区ドレスデン ノイシュタットの再建やツヴィンガー宮殿の建設の計画にも積極的でした。フリードリヒ・ベトガーを促し、励まして、1706年のヨーロッパ初の磁器発明とマイセン磁器工房設立を結実させます。さらに鉱山業、冶金業、農業、商業、手工業もアウグストのもと大きな発展をしました。
彼は選帝候家の財宝庫を内容ごとに分割し、初めてその一部を公開に供しました。その意味で、近代的博物美術館の創設者のひとりです。巨額を投じて、コレクションに多くの豪華な芸術品を加え、大きくしていったのです。また彼は王国への誇りをポーランドの鷲と王冠にして、ツヴィンガー宮殿や緑の丸天井など、至るところで表現します。
アウグストには、たくさんの逸話が伝わります。なかでも側室たちとの関係は想像が想像を呼んできました。365人の子供をアウグスト強王はもうけたとか。これはプロイセンに伝わる伝説です。北の隣国では、彼の「生きる喜びと芸術の享受」はあまり語られなかったようです。
コーゼル伯爵夫人との破局は、小説家や映像作家にインスピレーションを与えてきました。蹄鉄を手で割ったという話もあります。ブリュールのテラスの手摺りにある、彼が親指を押し付けてつくったというへこみは、市内観光の時に欠かせない話題です。手摺リは実際には彼の死後10年して設置されたのですが。ともあれ、彼の並外れた怪力がアウグストを「強王」として歴史に残すことになったのです。
1733年アウグストがワルシャワで没すると、クラコフのヴァーヴェル城からほんの数メートル下がったところに建つ大聖堂に埋葬されました。もちろん常にドレスデンのために打っていた心臓は、彼の望みに従ってドレスデンに運ばれ、宮廷教会の地下墓所に保管されています。
(クリストフ・ミュンヒ)